道草のすすめ
近所で呑んでいたりするとときたま若い子と出会う。そんなときに君は地元の子と聞くとはいと答える子がいる。深沢小学校や中学校の出身である。その子らに栄和堂のことを言うと、ぼくもわたしも学校の帰りなんかによく立ち寄って、本や文具を買うわけでもないのに店の中で時間をつぶしたのだという。
ぼくらが子供の時には本屋さんもなかったのでもっぱら野原や川辺で遊んだものだ。ぼくの家は小学校から歩いて3分くらいのところなのだが、それでも家になかなかたどりつけないほど寄り道をした。なんといってもこの“道草”が楽しいのだ。このおもしろさは昔も今も変わらない。
前の記事で目的指向が強すぎると視野がせまくなるので、何となく眺めてみて、そこから思いがけない発見をするようなアプローチも必要ではいかと指摘した。まさに道草をしようよということなのだ。深く良く知ることも大事だが、自分の知らないことを知ることも悦びだし、豊かな心持ちになる。
最近の傾向として、右だ左だ、黒だ白だといったように2極化した議論を多く見かけます。そうした対立的な位置に身をおくのはどうなのでしょうか。少なくともぼくはそうした極地にスタンスをとろうとするとすぐに疲れてしまいます。中庸というのがよろしいかと思っています。つまり、道草精神こそ偏らずに多様的なものの見方ができる目を養うことができるのではないでしょうか。
ところで、子供だけが道草が楽しいわけではないですよね。大人になっても道草をしたいはずです。しかし、仕事や家庭の忙しさに追われて道草を忘れています。スピードや効率を求められて、無駄な時間は許されないといった雰囲気に慣らされていて道草どころではないように見えます。
では、現代の道草って何でしょうか。新橋の呑み屋で一杯のむことでしょうか。銀座のクラブで鼻の下をのばすことでしょうか。おいしい料理を堪能することでしょうか。休みの日に趣味に没頭することでしょうか。ちょっと違うように思いませんか。
何気なくふと急ぎ足を止めて、ゆったりとした椅子に腰掛け、頭のなかを真っ白にして、コーヒーやビールを片手に紙の本をペラペラめくるという時間を持つのって現代の道草のひとつだと思うのですがいかがでしょうか。ちょっとお兄さんそう帰りを急がずに栄和堂に立ち寄ってみてはいかがですか。